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おととい、こんなことを書きましたが、

今日読んだ記事で私の言いたいことを

言語化してくださっていた方がいたので

ちょっと書いてみます。

 

この記事なのですが、一部引用させていただくと、

こんなことが書いてあります。

 

厳しく指導しなければならないが、殴ってはいけない。
いや、素手で軽く殴る程度のことは土俵に生きる男が相手ならあってしかるべきところだが、道具を使って殴ってはいけない。
すすめられた酒を断るのはもってのほかだが飲みすぎてはいけない。
番付がすべてだが鼻にかけてはいけない。

いったいどこの世界の人間が、こんなダブルバインドの中で正しい道を見つけることができるだろうか。

品格も同じだ。
何が品格でないのかは、ことあるごとに列挙されている一方で、何が品格なのかは一向に明示されない。

どんな言動が品格から外れていて、何が品格を裏切ることになるのかについては、いちいち具体的に指摘されているものの、どんな振る舞い方が品格にかなっているのかということは、ついぞ説明されたためしがない。

とすると、横審の爺さんたちの言う「品格」という言葉に「オレたちにとって都合の良い外国人横綱」以外の意味が宿っているものなのかどうか、私は疑わずにおれない。

 

挙げている内容がダブルバインドかどうかの議論はおいておくにしても、

ある種、相反することについてバランスを求められていることがあり、

そしてそのバランスがOKな範囲かどうかは周りが、あるいは特定の人が

勝手に、しかもその時々の気分やら世の中の空気やらで変わるルール

(それをルールと呼ぶには不確定かつ矛盾をはらむものかと思いますが)

によって判断される、という状況が存在していると考えています。

 

それは批判される側からすればある種コントロールできない部分であり

どうとでも解釈されどうとでも評価される厄介な代物です。

 

このことは仕事をしていても生活をしていてもよく感じます。

正しいと思う意見を振りかざし、というよりはそのナイフで

ぐさぐさ周りを刺していくように”正義”を使っている人が

時々いますが、そのいかようにも変化する”正義”とまともに

やり合おうとすると、それは変化するので論理のすり替えに

すり替えを重ねて何周かしてまた元に戻るような、

どうにも疲れて絶望感を味わうコミュニケーションしか

取れないことがあります。

ダブルバインドどころかトリプルバインドでも全然足りないくらいの

何枚もの板挟みになるような状態でもうわけがわからなくなります。

しかもたまに、これはうまくいったという状況があっても

それが必ずしも再現されるわけではない、その次のときには

ルールがもう変わっている、といったこともあります。

 

尚、ここで私が言っているのは、今回の騒動の是非やその内容・原因、

あるいは、ジョンレノンとの関係性についてではありません。

この記事から見えてくるものについて述べているだけです。

 

なんでも好きにやっていいよと言われながら、何かを始めると

それは違うと毎回止められるような、そんな状況を

思い出しながら書いてみました。

 

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