縛られない生き方をしたいと思う。
自分は今これに縛られているなと意識できるものや、
無意識に縛られている(無意識だから気がつかない)もの。
それらから解放されれば今より自由に感じられると
思っています。
その一方で、自分を縛るものが何一つなくなったとき、
それは結構つらいんじゃないかとも思います。
全てにおいて自由にしていいですよ、と言われても
逆に何をしていいか分からなくて今までと同じ事を
繰り返すことになるんじゃないかと。
(今までと同じ事がいけないというわけではないですが。)
現実問題、自由にしていいと言われても、
法に反したらつかまってしまうわけだし、
そこまででなくても、何かしら人に影響を与えることをしたら
その代償を払うことになるのは確かです。
何かを得るためには何かと引き換えにしなければいけない
という法則が成り立つのであれば、
縛られない生き方をするためには何かしら代償を払う
ことが必要になるのでしょうか。
(逆に縛られている場合も縛られるという代償は払っている)
ある部分ではきっとそうなんだろうと思います。
でも、本当は代償なんていらないんじゃないか?
というものにまで代償を払うのは嫌です。
たとえば、最近流行りの働き方改革に関連して、
労働時間、その中でも時短勤務についてはおかしな
代償を払っていると思います。
子供をもつ親が働くときに(大抵は母親が)時短勤務を
することがありますが、その場合、短くなる時間に応じて
給与が減額されることが多いと思います。
労働時間を短くするという代償として給与が下がっている。
時間で縛られる部分を少しだけ解放する代わりが給与、
という図式。
実際には急な子供の病気等で突然休んだり早退したり、という
ことも暗黙の了解としてあるのでしょうが、それを考えたとしても
給与が代償なのか疑問に思ってしまいます。
給与が代償になる=時間に対して給与を払っています、
という構図が成り立つように思い、そこにどうしても違和感を感じてしまう…
労働者保護の観点もあるため時間に対して支払いを行う、
たとえば残業代のような考え方は一定必要だと思いますが、
時短勤務で給与減額というのは不思議な感じが拭えません。
時短勤務についても子供をもつ親だけが選択できることが多いと
思いますが、労働時間を短くすることについてだけ言えば、
誰でも選択できればいいのにと思います。
会社員として働くなら毎日一定時間は働く必要があるというのは
変な慣習なのではないでしょうか。
今後は、労働時間についてはいろいろと変わっていくかもしれません。
時代によって個人を縛る対象は変わっていきます。
ある意味では昔よりも縛られるものは減っているでしょう。
昔からずっと私たちを縛っているものもあるのでしょう。
また、縛られることは必ずしも悪い事ではないと考えています。
縛られることによるメリットもあるので最後はその人の選択です。
縛られていても縛られていなくても何かしら代償を払う事に
なるのだとすれば、自分が納得する代償を払うように生きていきたい。
つまりできるだけ縛られた生き方はしたくないが、
縛られた方がメリットがある(見返りが魅力的である、
縛られた方が生産性が上がる、など)のであれば
それもありだと思います。
流されるままでなく、何に自分が縛られたなくないのかを理解し、
自分で選択して生きていきたいと考えています。
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