がんばらない生き方を希望する人もいる。
いや、何一つがんばらない生き方なんてできない、
生きている限り何かしらがんばっている。
どこでがんばるかはその人次第。
仕事に対しては、昇進もしたくないし給料もそのままでいい、
可もなく不可もなくただ穏便に過ごしたい、
責任重大な仕事、昇格、成長、
そんなのいらない、
ビジョンの実現に向かって邁進する、情熱をもって周りを巻き込んで社会貢献、
そんなのいらない。
そんな考えに触れたときに、がんばらない生き方という言葉が浮かんできました。
最初にその言葉が浮かんできたのですが、仕事は必要なお金を稼ぐための手段な
だけであり、他にやりたいことがあってそっちをがんばっているのかな?
とも思いました。
でもまた、いやすべてにおいてがんばらない、ということもあるよなと
思い直しました。
”がんばらない”という言葉が適切でないのかもしれません。
なにかこう、右肩上がりのような、どんどん成長していくような、
あるいは、情熱を傾けてあることに取り組んでいく、といったような
ニュアンスです。
言葉はともかくそういったことが一切ない、ということもあるよなと。
生きている限り成長していくことが必要だ、
成長しないのなら仕事をする資格はない、
そんな考えもよく見かけます。
確かに、その方が会社としてはいいだろうし、
本人にとってもやりがいとかあるかもしれない。
がんばった方が楽しいよ、乗り越えた時にもっといい景色が見えるよ
という声も聞こえます。
でもそれを手放すことがほんとうにいけないことなのだろうか?
がんばらないことは認められないのだろうか?
そんな疑問も一方でやってきます。
最終的にはその人の自由であると思うし、会社勤めであれば、
それが会社に合わないのであれば辞めるとかクビにするとか
すればいいだけで、その生き方や働き方はその人のものであり、
とがめることは何もないのではないかと考えています。
なかなか認めづらいことなのかもしれませんが、画一的な
生き方や働き方、考え方を強いるのは、それが例えば理想の
生き方のように思えても、たとえ実際に理想の生き方だとしても、
乱暴なことのように思えてしまうのです。
人の人生に責任は持てないのだから強制もできないと思っています。
A.I.が発展・浸透していくことで、いろいろなことが機械に
置き換わっていき、そういった成長意欲のない人の仕事に
作業的な仕事が多いのだとすると、A.I.が替わりに行うように
なるのかもしれません。
そうすると仕事がなくて困った、ということになりそうですが、
A.I.がどんどん発展していくなら生活のための仕事なんてせずとも
暮らしていけるようにすることが可能なんじゃないかな、
ちょっとそんな世界も夢みたりします。
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